感謝して頂く。
植物も生き物。
感情があるように見えるのは私だけだろうか。
動物を狩るのがかわいそうというなら、
植物も同様に感じて欲しい。
そして「かわいそう」などという感情、それすら「我」である。
相手は、自らの意志で「犠牲」を選んだのだ。
相手の意志を尊重するというのであれば、「かわいそう」という感情は、
むしろ、相手への「不信」の証と知ること。
「犠牲」にさせられたと思うのであれば、それは、その「差し出す心」がうそ偽りであったと知ること。
相手に対して「偽り」を働いたのだと、自分を恥じよ。
自然の恵みと、生態系に敬意を払うというのなら、
必要な分を、「感謝」して頂く。
使い切る。
「我」を通すというのなら、その犠牲に「感謝」して通しきれば、
その自らの意志で「犠牲」を選んだソレは、報われるのではないか?
私はそう思う。
自然と共に、共同で生きようという「姿勢」が人間になくなったから、
自然が崩壊している。
そのような状況を変えるには、「感謝」する心を取り戻すこと。
自然の声を聞くこと。
「感謝」して、己が道をやりきること。
やり切る中で、譲る(犠牲)姿勢も見せること。
私は、それが、共生するということであると、そう思う。
其れが正に「成仏」ではないか?
そう、薬草魔女は世界に問う。