生き残るための原始的反応

2023-06-22

ちょっと、目についたニュースを見て思ったことを綴ります。

生き残るための原始的な反応が、SNSにより言葉の世界でも見られます。

人は自分が有能で生きるに値することを証明するための様々な方法をとりますが、最も簡単なのは人を落として自分を高めることです。

それは言葉の世界では「誹謗中傷」という形なのだろうと思っています。

現実では、

・周囲に悪口を言い回る人
・自分がいかに有能かを必要以上に語る人(マウンティング)

そのように自分を現実より大きく見せて周囲をだますことで、

「仕事できないのに口だけ上手で上に気に入られる」

というような生き残り方をする人は多くいます。

普通にクソ嫌な奴ですね(笑)
しかし生き残り上手ではあるなと思います。。。
まぁそれすらかわいいと思えるほどにSNSでの誹謗中傷はひどい。

この世界、住まう国、地域の常識・法律からすると、集団が安定して生きるための「道を外した者」への何らかのペナルティは必要でしょう。

しかし、

・生まれる家は選べない
・名前も選べない
・容姿も選べない

「その条件下において何を学びどう生きるのか」

これが宇宙の法則であるとしたならば「道を外した者」の家族やかかわっている人々への、

~でかわいそう

という見方は押し付けになるのではないかと思っています。
特に 子供はかわいそう という正義のもとに「道を外した」親を非難することにいつも疑問を感じます。

現実に私の母は誉められるような人生を送っていません。
今ならとっくに児相案件、、、ともすると事件の中で生きてきました。

この中で生きる子供(人間)にとって「かわいそう」という言動は、

自分はかわいそうなんだ
自分の親はひどい人間なんだ

という固定観念が植えつけられ、自分はそんな親から生まれた社会非適合人間なのだという信念がこびりついてしまうと自分の体験から感じています。

「守るつもりで親を非難したつもりが、同じ遺伝子を持った子供を非難している」

生きてはいけない人間として、それに見合った生き方に誘導している。
それでさえ、そんなに人たちの中でどう生きるのかという学びととらえることもできます。

だからこそ、

「もっとほかの見方ができるよ!」

と、苦しい時にこそ手を差し伸べる存在がいることが大切だと身に染みて思っています。

私は、生活が悲惨な分常識は学びませんでしたが(後から苦労して学んだ)、母のぶっとんだ生き方によりアーティスト感覚は養うことができました。

・低所得者という集団の中での思考傾向を知ることができました
・それゆえの人を見抜く目も養われました
・常識を知らなかったがゆえに違う方向からの視点も持っています
・母より受け継いだ「視える力」で仕事をしています
・人生の深い相談も難なく受け入れることができます

母には感謝しかありません。
偉大なアーティストとして尊敬しています。

しかしながら母は社会性をもって生きることは難しい人です。
ですので距離を持っています。(必要なことは弟と話し合いながら手配しています)
このバランスの取れた見方を教えるのが「先を生きる人間」の務めと思ってこの仕事をしています。

日常の人間関係ならば、それぞれに受け入れられるキャパがありますので「面倒だ」「耐えきれない」と感じることでしょう。
それはそれで素直に「できない」という言動をするのが「親切」です。
個人の経験上「親がだめならお前もダメだ」と刷り込むような「常識の押し売り」をされるより、素敵な援助です。
また「心で援助」することもできます。
人間の原始的本能に従うことを選んでいる人々は今後も存在し続けることも現実ですから、「あなたなら大丈夫」「素敵な人生を」「可能性を見て」など「心で応援」をすることで、その子たちが悪い方に考えないように守ることができます。

仕事として考えるなら、ここまでの人生を見る必要もないとも思います。
私の例は特殊だと自分で理解しています。

それよりも「予防」として、希薄になったコミュニケーションの時代に合って「日々の生活に密着した小さな問題への介入」を行える人が多く必要だと感じています。
話しやすい環境を整え、自己を整え、ただ待つ。(経験上導かれるように依頼が来ます)
そのためのスピリチュアルな心理ケアができる人を育てていこう、心理ケアを淡々と続けていこう、そう思った午後。