自分の人生を楽しんでいるように見えて、実際は自分のことなどどうでも良いです。
すべての経験値は自己の天命のためにあります。
「自己の幸せは他者を幸せにすることと見つけたり」
この結論に至ってから、私のすることの軸はすべてそのための経験でしかありません。
習い事も研究も、趣味も、生命活動全てがそのためにあります。
何度も自分は不要で、役たたずで、生きてる意味すらないと、無能は無能らしく生きてきましたが、結局は死ぬことすらできない無能で生きる価値も見いだせない人間でした。
究極まで追い詰められたところで噛み締めた感情と経験、そして結論。
「結局誰も見ていないし、誰からも認められることもないならば、自分はどうでもいいので人のために生きてみよう」
希死念慮
に関する禅問答の究極の答えがそれだっただけです。
人のために生きようとすると、することが無限になる。
社会問題は山積みで先が見えない。
そんな終わらない使命が私を生かしています。
何らかの良き結果を聞くたびに
私の心は救われて
今日も生きよう
明日も生きようと
思えるようになりました。
だから、今の私は皆さんのエナジーでできています。
そのエナジーをまだ、自分のできることで返しているだけです。
この自然の循環法則を、生き方で持って伝えているのです。
ただ己がよく見られたい 成功したい 以上のその先にある 「美」
よく見られることを意識しているうちはまだまだです。
それは当たり前で、「自分を空となし目の前にある自己を超えた願いを叶えるための美を追求できるか」
それには自分のできることで最善を尽くす。
その中で必要が見えてくる。
淡々とそれをやる。
必要なときにいつでも魔法を使えるように磨いておくための訓練は怠らない。
それだけです。
私にはそれが丁度よい。
それ故に、誰かを見て、それが気になってネガティブな感情がでる余裕があって良いなと、逆に微笑ましく思います。
まだ大丈夫だと安心します。
そして、まだまだ磨かれないといけませんねと、怖い笑顔でニッコリとします。(その様はホラー
「美とは 姿形だけにあらず」
というのはそういう訳からです。
なりふり構わず子を育てる父母を想像ください。
美しいと感じないでしょうか。
その考えうる自分の最善で夢中な姿を、汚いと思うならその心を反省しなくては本当の美しさなど手に入らない。(DVなど問題ある父母はまた別問題で、一般的な父母の懸命さです)
あまり私の過去の経験を詳細に言うと、想像力豊かな人には酷だと思いますので控えています。
ゆえに、今の私を知っている方にはお気楽極楽な人間に見え、それにより共感できるときもあれば、できないときもあるかと思います。
ただ、ここは言っておかなければならないタイミングと感じています。
誰しも、「お前に自分の苦しみがわかるのか」 と自己憐憫になるエピソードを持っているかもしれない。
その感情を超えた先に、幸せはあります。
皆できます。
「同じ経験してから言え」
なんて自己を苦しめるだけの下の下の答えです。
そこに成長はない。
やってないからこそ見える世界を謙虚に受け入れる心こそが、更に自己を成長させます。
一般的に見て本当に過酷な経験であろうが、なんでそんなことくらいでと思えることであろうが、その辛さを比較するものではない。
みな親とそれを取り巻く環境は選べず生まれただその中で生きていくほかない。
この現実に素直に生きるのみ。
自分を救うも殺すも自分次第です。
確かにひどい親だったかもしれない、ひどいクラスメイトだったかもしれない。
明らかに被害を被ったかもしれない。
けれど、人や出来事のせいばかりにしていれば、いつしか自分が人を呪い殺す人になる。
自分も誰も救わない鬼になるのか
鬼を説得する存在になるのか
どうする?
私の選んだ天命(仕事)はそういう世界なんです。
私は、様々な感情を受け止めて、かつその方が自分で昇華していくことを導くことが天命と定めています。
「お前にわかるものかと噛み付いてきて結構」
何も感じないから。
どーでもいいし、私の人生に少しも影響しないし関係ない。
そして私はそこを見ていない。
問題はそこじゃないから。
怒りの鉄槌が飛ぶのは、あなたが自分を見捨てようとしたその時。
さてはて、そんなわけで私というパーソナルに関しましては、
自分の不幸を笑え 笑い飛ばしてしまえ
自分の不器用さを笑え 笑いに変えて人を元気にしろ
苦も楽しい という
心頭滅却すれば火もまた涼し
までいっちゃったやばい人と心得ていただければ幸いです。